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特に書くことも無いのだけれど・・・

改元があって、「平成」から「令和」になったり、桜田五輪相の失言続きで辞任になったり、統一地方選があったり、大阪都構想が少し動きそうな気配があったり、急に寒くなったり、私はデイケアに通うことになったり、仕事の心配もソロソロ本格的になってきたり・・・ 雑感 毎日の生活が何だか、現実味がない感じがして生きている感覚が余りありません。そういう年なのかもしれないけれど、「~しなくちゃ」という意識がどっかに行ってしまった。何をしても何もしなくても何も変わらないし、時間は過ぎていくし。 相場を見ている事もあるけれど、今は元手もないし、取引行為は医者に止められているので、ほんと見ているだけ。ZOZOの件は、スタートトゥデイの頃から、あの社長のキャラが嫌いだったので、見ていて、おもしろいなぁ、ってくらいだし。 Yahooニュースも、ダウンタウンの松本人志の写真付き記事が何だかわからないけど出てきてて、ウザいし、TwitterのTLを見ていても、何も面白いことがない。 こないだ、ラーメン屋さんで情報バラエティ番組をやっていたので、少し眺めていたが、こんなものなくても良いなぁ、と思うような番組だったとか、こんな感情的で扇動的な番組に煽られる市民っていうのはいったい、どんな種類の人達なんだろうか、とか思ったり。 後は何だろ。離婚したのにまた家族が帰ってきたりして、それはそれでいいけど仮面夫婦のままだったりってのは、やっと慣れてきたけれど、結局、刑務所暮らしになれても、刑務所であることに変わりはないのと一緒だったり。車を洗ったけど、洗えば洗うほど、年数を感じるので、「買い替えだよなぁ・・・」と思いつつ、金はないのであって、次は、こないだ試乗した、2LのGolf Rが欲しいとかおもってんだけど、いつになるかわからない。 金の件は、任意整理が終わらない事には、手を付けられないだろうから、あと数年は無理だろうなと思ってみたり。 要するに、何もかもが「どうでもいいから早く終わらないかな」っていう感じしかない。

「休み方改革」とかいう、どうでもいい見出しに反応

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「休みを取ろう」という掛け声  何でか、日本人は休むのが下手くそです、という論調が多い感じがして、他の外国、特にOECDの中での有休消化率とかをデータにして、「休みを取りやすい仕組みが必要だ」とかいう話になってます。  私は今、無職なので毎日休みなんですが、サラリーマンの時から、特に休みづらいという事は感じたことありませんでした。もちろん、周りの理解もあったけれど、「休まない事」を美徳とするようなところにいなかったから余計かもしれません。  ただ、上役より先に帰ると、嫌みを言われる、とか、そういう現場にはいましたが、私は関係なく帰っていました。連休も取ってました。 実際、周りを見て恐々とったり、イジメに合うんじゃないか、上司に嫌われるんじゃないか、そういう風潮があるから休みにくいのであって、私からしたら、若手や部下が何もすることがないのに、モジモジ職場に居たりしたら、「帰ってよ」って言ってましたよね。 まぁ、そういう性格だから、無職になったのかもですが。 「仕組み」を作ろうとする  ただ、思うのは、結局、休みやすい仕組みを作ろうとするという流れがまず駄目だと思うのね。休んでしまうしかないと思いますよ。既成事実で、押し上げていくしかない。 実際、経済が発展している国は起業率が下がる、他の人と違う事をしようとする気概が下がるというデータを見たことがあります。保守的になります。当然ですよね。アメリカでそうなんだから、日本なんてもっと保守的。  私はIT業界で18年ぐらい働いてましたが、今思っても、若いころにいた社員と、今の社員、あの頃の新入社員や中途社員と、今の新入社員と中途社員では、違いが多いです。今の新入社員の方が、体制に対しての保守的な態度がアリアリと感じます。それと、なんか恐々と物事に当たります。体育会系の元気な人でも回りを見ながら恐々と。  別に熱血漢が欲しい訳じゃないのですが、一歩引いて回りを見てから歩いていいか聞いて、歩く、みたいな。 だから「仕組みが必要」というのでしょうけど、結局、そんなものあっても利用する勇気が試されるだけですからね・・・。休んだ、という事実には変わらない。 実際、業務に支障が出なかったら、良いのですよ。それに、私は「休んだ休んだ」って書いてますけど必要な...

仕事のあれこれ

仕事をしていると、いろんなことが気になる。皆同じだと思うけれど、気になったものをどうやって処理するか、どうやって表現するかというのは、それぞれ気になる。それぞれの立場で色々なことを気にしながら、最後に出力される答えはマチマチになってくる。 この会社に入って半年経った。居心地は悪くないのだが、他の社員と話をしていて、なんだか期待にこたえ切れなかった自分を感じた。この上期を振り返ってみると、何を期待されているのか、何ならできるのか、今の状態でどうやるべきか・・・。それぞれに自分が反応できる答えを見つけることができなかったことを思い出す。この会社での身の振り方で言えば、ちょっと勘違いしていたかも知れない。 これから会社でどうしよう 会社の人間と話していると、この上期を振り返って色々な話を聞いたが、私を見て、「大変そうだ」ということをよく言う。この一言は実に曲者で、「大変そう」っていうのは、言いたいことは深く、それでいて言葉自体に意味は無い。「本当に大丈夫?」という言葉もその中に含まれているだろうし、「本当に大変そうだね、」という同情もあるだろう。「残念だね」もあるだろうし、「ちょっとムリなんじゃない?」もあるだろう。いろいろな意味がある、この「大変そうですね」という一言をいろいろな人からもらった。 そんな言葉をもらう中で、なんとなく炙り出されてきたのは、自分のできることをやってない、という思いだった。自分の全力を尽くさず、何かを待っているのか、怖がっているのか。 自分のできることを意識する 意見を言う 斜に構えない 必要と思われることは、全て書く 今までの経験から予測する 変化が必要なときは、そのように言う。 元々、仕事の上で自分のできることをやる・・・全力でやる・・・という基本的なことに凄く怖がり。耳と目はいいけど、手が動かないタイプの典型だと思う。その上、耳と目で仕入れたことを口にもしないので、指示待ちに見える部分もある。要するに、「出し惜しみ」をしているのだ。行動全般に昔から怖がり。 行動に移すということ なぜ、出し惜しみをしているか、といえば、出した結果に対する評価が怖いから。誰だってそうだけど、行動に移して、結果がどうなるかは怖い。私はそれが人一倍怖い。きっと気がつくことは多いと思う。それが故に、怖くなってしまうこともある。 なんとなく、以下に行動と気付きについ...

チャートの意味

チャートを見ていると、気がおかしくなりそうになることがある。明日は、次の瞬間は、このグラフは上に行くのか、下に行くのか、そんなことを考えていると、なんだか周りの目を気にしながら生きている時の自分を思い出す。自分の評価は?彼は、彼女は、自分をどう観ているのだろう・・・、そう思い始めたときに次の一歩を踏み出すきっかけは、思い切りだったりする。その思い切りるきっかけは、自分で方向性を見出して、方向性を決めるときだ。 株価は毎日、瞬間瞬間で変わる。そのチャートを見ていて、如実にわかること。そのチャートが示していることは、未来は分からないのだ、という事実を分からせてくれているように見えてくる。記録は、常に過去を示していて、僕たちは、過去を判断基準にして生きている。こればっかりはしょうがない。 あとは、自分に言い聞かせよう、「次のチャンスもある、何度でもバットを触れるようにしておこう」

これからどうやって投資を続ければいいのだろう

この2008年1月は強烈な下げ相場だった。サブプライムが無視できない、ってことを世界の皆が思い知ることになった。実際は、この時期にわかったのでは、まるっきり遅くて、2006年から兆しはあったし2007年のパリバの件で気がつくべきだった。いやいや、考えてみれば、サブプライム問題というより、CDOのあり方とか、その前にマネー経済がアメリカの仕組みに頼り切っていたこと自体がどうだったのか・・・。 言い出したらキリが無い。後悔ってのはそういうものです。「あのときああしてれば・・・」「こうだったら・・・」。要するに「たら・れば」の世界だね。 そんなことを考えていると、自分の目的や視点をまったく失ってしまう。失っていることに気がつく。この1月からは、その連続だったような気がする。 視点 まず、相場を見て良いのか、企業を見て良いのか迷う。そのうち、過去を見たら良いのか、予測できない未来を見て良いのか迷う。もう疲れた・・・なんて思っていると、次はうわさを頼ろうとする・・・。2008年はかなり右往左往している。視点が定まらないのだ。 2004年にバリュー投資に出会って、少しづつだけど勉強をしていた。2003年くらいはまだバリュー投資をするための余地があった。相場に放置されている銘柄もあったし、そもそも、相場が安かった。「ランダム・ウォーク」とか、「効率的市場仮説」とか、よく考えてみれば、そんなもの知らなくても儲かる相場がたくさんあった。相場のトレンドが上がり調子だったのだ。そのとき、気がついている人もいれば、気がついていないで買っている僕のような人間もいた。それでも相場は上がるのだ。 これから この数ヶ月は、トレンドラインだとか、ゴールデンクロスだとか、窓空けだとか・・・テクニカルだって立派な指標だ!なんて思って2銘柄くらい、チョコチョコとトレンドで売り買いしてみた。結果はトントン。じゃあ、バリュー株を見つけられたか・・・と言えば、実は見つけようとしても怖くて買えない。 強欲さ、そういうものを感じた。いつまでにいくらほしい。そういう感覚が出てくると、人間の欲は野放しになる。欲が人間の生活を支配するようになってくる。じゃあ、私たちが投資をしている株式ってのは、欲望と無関係か?まったく関係している。欲望はコントロールされなければいけない・・・というが、欲望とはそもそもなんだろう...

シンプルさ

色々と思い悩んでしまう。元々考えやすいタイプで、「考えないでやってみたらいい」という言葉は物心ついてから、いろんな人に言われた言葉。その言葉を合えて否定するがごとくに生きてきた気もする。「考えてるんだよ、俺は!」という気分になったこともあるけれど、大半はただ同じことをダラダラと頭の中で繰り返しているに過ぎず、考えている、というより、「囚われている」と言った方があっている感じがする。ある状況に飲まれているという言葉もあっているかなぁ。そういう性格のなかで、「シンプルじゃない」という言い方をされるのが実はすごくつらい。でも、きっと複雑に、回りくどく、自分で考えてみたい、という欲求もあるのだろうな・・・と感じる。 シンプルさとはなんだろうか。単純化というプロセスは、いつでも必要なスキルだと思う。複雑なものを複雑なまま理解するというのは、抽象的に理解していたとしても、複雑なものの細部まで細かく理解できているわけではないことのほうが多い。要するに、分かったフリだ。だから、跡で「考えてしまう」のだろう。分からないものと分かるものを常に意識していることが考えすぎを回避するコツなのかなって気がしている。 しかし、いつでもどこでもシンプルであればいいわけじゃない。シンプルさは結果までのプロセスが短く、そのプロセスの回転数を上げられるうちは、経験も手伝ってよい結果を得られる。けれど、いつか限界がやってくるものだ。 そのときに必要なのは、もちろん物事を単純化するプロセスと、全体を抽象的に捉えるという2つのスキルなのかもしれない。結果を出す必要がある以上、シンプルさが必要不可欠だし、戦略を寝るための基礎体力という感じもする。

迷信と行動

例え話 ある時聞いた話。 「私の聞いた話なんだけど、よく遊び人っているじゃない?そういう人と結婚した女性がいたのね。で、その人、結婚してからも女遊びがひどかったんだって。奥さんにバレても止める様子がなかったんだってさ。でもね、奥さんは分かれませんでした。なぜかというと、その人の子供がおなかにいたの。」 「そーなんだ。それはそれは・・・・。」 「うん。その子にお父さんがいないのは、寂しいだろう・・・とおもって、我慢してたんだって。出産するときになると、だんなさんも駆けつけたんだけど、生まれた子供を見てびっくり・・・。」 「どうしたの?」 「その子供の、指が全部なかったんだって・・・・。それから、その男の人は、女遊びを止めたんだってさ・・・」 こういう、理屈の通らない話は世の中にゴマンとあって、雰囲気的には、都市伝説・迷信の類である。実際、この話が事実かどうかというのは、ほぼどうでも良い話であって、結果的に「女遊びをすると、えらい目にあう」という教訓が伝わればいいという話。 こうした、いわゆる、「迷信」というのは、たくさんある。都市伝説と呼ばれる形になっているものもたくさんあるし、結果的に話し手は「何かを伝えるときにストーリー立てて、身近な話題とすり合わせて、例え話にして伝える」ということをする。物事を率直に伝えても、相手の心に届かないことのほうが多く、逆に、少し現実を端折った例え話で身近な事例として感じさせ、話しをしたほうが、聞き手には響く場合が多い。 臨場感 ほとんどの場合、昔話は、迷信が持つコミュニケーション・プロセスを用いて、「何か普遍性のある理屈をつたえ、あるべき姿、を伝えるために作られた事実をベースにしたフィクション」を伝える手段とでもいえるのではないか。一定の効果があり、時代をわたって行き続けてきた話なので、今でもその効力は衰えない貫禄がある。 ここで問題にしたいのは、こうした話の内容一つ一つの科学的な妥当性や、理論的な裏づけではない。そんなものは手繰っても大して意味はないわけで、問題にしたいのは、「なぜ、われわれは事実を確認しないまま、こうした話の持つ臨場感に左右されてしまうのか」ということだ。こうした話には、理性で疑っても、疑いきれない、否定しきれない、感覚的・感情的な「臨場感」がある。この臨場感が「迷信」が人の行動をコントロールすることができる大きな...