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会社

誰が何の理由で集まったのか? ブログを読み返した。 2007年4月30日の自分のブログ に書いてあったことを、2度読み返してみた。今見ても、なんとなく納得する。1社目、2社目、そして現在3社目。この3社と、会社の継続性について、割と単純に、自分が知っている会社の流れを書いた。 文章の最後に、雇用者と被雇用者のことが書いてあった。今読んでみると、その言葉は予言めいて見えるほどだった。そのとおりになった。 以下、引用部分。 雇われる側と雇う側の 論理 には、 会社 が後ろ向きになったときに決定的な差が見えます。前向きなときは、お互いが歩み寄っているようにみえますが、後ろ向きなときにはお互いが別の立場だと思い知らされる。 会社 とは、 経営 側が継続性を保つために絶えず リソース の配分に気を配り、 リソース はその配分において答えを出して継続性に寄与するってのが 会社 なんじゃないかなって。 会社というのは、「共同体」という人もいた。ある人は、ピーター・ドラッカーの話を引用していて、そこには会社が誰のものかと言う観点で語ることすら 戒め、「社会へ貢献する集団であるという理解をなぜもてないのか」という言葉を引き合いに出していた。会社はただの仲良しクラブだったり、本当に個人の自 己実現のためであったり。( 渡邊さんのブログ ) 会社は誰のものか、という議論はあまりに稚拙だ。言うならば、『会社は社会のもの』という事を理解する必要があ る。 会社には、それぞれの形があり、それぞれ貢献している場所や箇所が違う。本質的に何か、という問いに答えることはできないが、今までの経験の中で一つ言え るのは、「会社とは何か」ということよりも、「誰がそこに集まっているか」ということが重要で、「会社とは何か」という問いに対しての答えに近いのではな いか。会社という器に誰が集まるかという考え方よりも、誰が集まって会社という器を形成したか、ということのほうに目をやるべきだ。何かの目的の下、もし くは何も目的がないが、集まること自体が目的で集まった、その「誰彼」は、要するに経営側・雇用側と同じと理解するのが早いと思う。 集団をつくった「誰彼」の意思は、少なからず経営側に引き継がれることが多い。 誰が何のために作った組織か、ということを理解することで、組織の行く末が見える。...