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中国の転換社債

ってことかな。 Doblog - いちカイにヤリ 投資世代(ロシア株、インド株、中国株、ブラジル株、ADR、BRICs) - ブルームバーグによると中国株の株価のアタマを押さえている非流通株問題を解決するために中国証券監督管理委員会はエクスチェンジャブル・ボンドの活用を検討しているそうです。 エクスチェンジャブル・ボンドというのは将来、株式に転換(エクスチェンジ)することが可能な債券を指します。これを出すことで非流通株のオーナーは場で株を売らずとも、或る程度の資金を債券発行から得られるというわけです。 なお、記事を読んだ感じでは、実際にこれが採用されるかどうかはわからないし、エクスチェンジャブル・ボンドの発行条件などの詳細もわかりません。 いずれにせよ非流通株問題は中国本土株にとって引き続き大問題であることにはかわりありませんから、大量の非流通株のロックアップが切れる(ピークは2009年です)前にきちんとした方針を打ち出すという事は良いことだと思います。 非流通株のロックアップが切れる、ってのは、流通し始めるってことでしょうかね。2009年がピークなんだ・・・。中国への投資については、今、少しまた見直している。

投資先について

ウォーレン・バフェット氏を中心とした、バリュー投資に関する観点では、極論するとIT関連ビジネスへの投資には肯定的ではない。彼らの話のなかでは、消費者独占で、顧客に対してインフレ分を負担することができ、資産効率がよく、遍く人の生活に密着したビジネスがまず選定のテーブルにあがる。それから過去のEPSや、そのほか諸々の検討が行われるというのが、流れ・・・かな。 メアリー・バフェット女史の出版披露会の動画を見る機会があったのだけれど、そこでも冒頭にチューインガム(リグリー?)の話とドット・コムバブルの件など出てくるので、何となく反応。 将来にわたって、IT産業が追加投資をしなくても利益を生み続けられるか・・という話があったとすると、それは確かに難しい。IT業界、ネット業界は、ニューエコノミーとまで行ってしまって良いのかは別だが、確かに既存のビジネスと一線を画す。それは皆が言っていること。情報格差は思いっきりビジネスチャンスだったわけだけど、ITはその垣根をなくしている。それと複製のコストについても、ほぼゼロに近い。単細胞動物のように、分離してドンドン、複製を作っていける。 今まで、情報に載せていた価値は、時間と場所と量などの制約があったんだけど、ITは確かにそれを限りなくゼロにしている。この辺は、ウェブ進化論がしっかりと話をしているので、それを見るのが良いのだろう。 そういう観点で考えると、確かに長期投資という点では、非常に難しい分野なのかもしれない。バフェット氏は「人の営みは継続する」という観点において予想してるんだよね。ガムをかんで、新聞を読む・・・。この行為がITが出て全てなくなってしまうか、と言うとそう言うわけじゃない。クレジットカードだってそうだ。「人はそれを辞めないだろう」というビジネスへの投資が好き。 そう考えると、「常識」にそっているかってのも、考える。あまりに非常識だったり、先進的なものは判断材料が乏しい。常識っていうのは、やっぱり過去なんだよね。ベストプラクティスを大多数の人間が判例として持っていて、それを元に日常の生活を判断している。その常識がどんなものか、と、その範囲を知ることは非常に重要。 単純に言えば、サラリーマンがやることは、可処分所得を持つ大多数の人間がやるだろう、という予想に基づいて良いわけだ。 そう考えると、ITはどうか?たとえば...

欲の管理

投資の目的は、欲望と強く関係が有るのが普通。昨日も強欲さ具合と投資について触れたけど、今日、ストックナビ通信を読んで、こんな記述があったので、引用。 欲には限りがないのが普通の投資家だ。 おそらくは世界の王になりたいというところまでいってしまうだろう。その考えが良くないから、 神は投資の失敗という試練を与える。 強欲は強すぎる欲望なんだろうね。投資をやっていると思うことに「負け方」という考え方がある気がする。次につながる負け方というか。 というと、勝った時には自動的に次につながる気がするけど、実は勝ちも負けもその時だけの結果であって、次どうするかというのは、その結果が全て決めるのではない。強欲はその結果の見方にも影響する気がする。 やっぱり、シッダールタの、「考えることが出来ます、待つことが出来ます、断食することが出来ます」って言葉を思い出す。

これからどうやって投資を続ければいいのだろう

この2008年1月は強烈な下げ相場だった。サブプライムが無視できない、ってことを世界の皆が思い知ることになった。実際は、この時期にわかったのでは、まるっきり遅くて、2006年から兆しはあったし2007年のパリバの件で気がつくべきだった。いやいや、考えてみれば、サブプライム問題というより、CDOのあり方とか、その前にマネー経済がアメリカの仕組みに頼り切っていたこと自体がどうだったのか・・・。 言い出したらキリが無い。後悔ってのはそういうものです。「あのときああしてれば・・・」「こうだったら・・・」。要するに「たら・れば」の世界だね。 そんなことを考えていると、自分の目的や視点をまったく失ってしまう。失っていることに気がつく。この1月からは、その連続だったような気がする。 視点 まず、相場を見て良いのか、企業を見て良いのか迷う。そのうち、過去を見たら良いのか、予測できない未来を見て良いのか迷う。もう疲れた・・・なんて思っていると、次はうわさを頼ろうとする・・・。2008年はかなり右往左往している。視点が定まらないのだ。 2004年にバリュー投資に出会って、少しづつだけど勉強をしていた。2003年くらいはまだバリュー投資をするための余地があった。相場に放置されている銘柄もあったし、そもそも、相場が安かった。「ランダム・ウォーク」とか、「効率的市場仮説」とか、よく考えてみれば、そんなもの知らなくても儲かる相場がたくさんあった。相場のトレンドが上がり調子だったのだ。そのとき、気がついている人もいれば、気がついていないで買っている僕のような人間もいた。それでも相場は上がるのだ。 これから この数ヶ月は、トレンドラインだとか、ゴールデンクロスだとか、窓空けだとか・・・テクニカルだって立派な指標だ!なんて思って2銘柄くらい、チョコチョコとトレンドで売り買いしてみた。結果はトントン。じゃあ、バリュー株を見つけられたか・・・と言えば、実は見つけようとしても怖くて買えない。 強欲さ、そういうものを感じた。いつまでにいくらほしい。そういう感覚が出てくると、人間の欲は野放しになる。欲が人間の生活を支配するようになってくる。じゃあ、私たちが投資をしている株式ってのは、欲望と無関係か?まったく関係している。欲望はコントロールされなければいけない・・・というが、欲望とはそもそもなんだろう...

学校という組織と人

営業先には、学校もある。学校は、よく「文教」というセグメントでくくられることが多い。大手ベンダーなどが、部門名に「文教」とついていることなどあって、学校は、小学校~大学などを含めて「文教」と呼ぶことが多い。 先日、ある地方の高校にお邪魔した。製品販売の一環で説明にいった。受付を済ませて応接室に。そのとき、「担当教諭が打ち合わせの時間を間違えており、本日は午後、お休みをいただいております。申し訳ないのですが、他のものが対応いたします。」と言われる。お客様の予定の突然の変更や、お客様の時間の勘違いはたまにあり、しょうがないなぁ、と思うくらいだった。 実際、応対に来ていただいた方は、部下に当たる方で話は通っていたこともあり、スムーズだった。その上、学校内の施設の見学までさせていただいて、なんとも言えず「親切」な対応をいただく。 世間ズレしている世界 1週間後、価格のご提案に、再度担当教諭を尋ねる。担当教諭も、業者なれしていることもあり、価格交渉は厳しくも慣れている感じで、良くある感じだった。 しかし、気になったのは、その担当教諭の対応でも、先日お会いした部下に当たる教諭の対応でもなく、他の先生の態度だった。 打ち合わせは、その担当教諭が取り仕切るIT関連の部屋で行われた。そこに机のある先生は、みんな校内のIT関連の仕事もしながら、個々に専門を持つ。担当の教諭、と呼んでいる方は国語の先生だし、部下にあたる・・・と呼んでいる方は英語。体育や数学、色々いる。その先生のところに、他の先生が突然入ってくる。「メールの送り方がわからない。」そんなのは、全然良い。打ち合わせをしているのは応接ではないので、しょうがない。急いでるのかもしれないし、そもそもが新参の業者にそこまで気を使うこともない、という心理もわからないではないし。 ただ、ある先生などは、大声で愚痴を言い出し、部下にあたる英語の先生にゴチャゴチャと何か言い出した。まったくこっちを無視している。また、紹介された数学の教師は、何となくこっちを生徒扱いしている。挨拶がおかしいのだ。 私が不安になったのは、私のような民間企業の営業にこういう態度を持つと言う先生のしたで育つ生徒たちのことだった。子供を持つと、社会に対する感度が強烈に増す。色々な事件や、社会問題が身近に感じる。そういう感性のなかで、親として「こんな人たちの下で育っている...

文字で伝えることとテレビ

人間の情報のほぼ8割~9割は目から入る映像情報で、文字や音声を圧倒的に上回っているということは、よく聞く話。目に見えるメディアが一番強い。そこから受ける影響も格段に違う。殺人事件の報道で、「殺害現場」をカメラで写しているのを見るのと、ラジオで状況を伝えているのを聞くのと、どっちが臨場感があるかといえば、映像つきなのだ。 藤沢さんのブログはチョコチョコみていて、こんなエントリーがあった。 金融日記:テレビを捨ててしまおう 文字と音声と画像と動画では、文字→音声→画像→動画と右に行くほど、電子工学的には情報量が爆発的に増えていきます。 ところが人が実際に受け取れる情報量というのは不思議なもので左に行くほど増えていくのです。 本のような文字情報はラジオの音声情報やテレビの動画よりも多くのことを伝えますし、一枚の絵画は時に何時間ものVCRよりも多くを伝えるのです。 人間がもっとも情報を伝えられるのは、実は文字なのです。 最後に、人間が最も情報を伝えられるのは実は文字である、とある。これは、伝えられるものは圧倒的に映像だと思うけど、おっしゃりたいことは分かる気がする。要するに、受け取り側の処理の問題なのではないか。文字のほうが、想像力や意味づけがしやすいというのがある。映像の情報量は圧倒的だけれど、それらを覚えていても実は後でそれほど役に立たない。問題は、文字などの、ある意味「不完全」で 「抽象的」な情報収集が、判断の材料にしたり、さらに人に伝えるときに付加価値をつけやすい、そういう意味で、文字のほうが雄弁であるというのは、うなづける。 テレビ テレビについては、ほぼ見ていない。引っ越してからケーブルテレビを引いたのだけど、結局見てるのは、NHKのニュースとケーブルでやってる、Discovery Channel、あとはたまに映画チャンネル。これで十分日常のテレビの役割は果たせてくれている。こういう生活になって、テレビを見る時間は減ったし、久しぶりにお笑い番組とか見ると、学芸会のように見えて、こちらが恥ずかしくなることもある。 これは価値観や、「なにを面白いと思うか」「時間を何に使うか」という個人の判断だから、何を言うわけではないけど、テレビ離れは若い人の間でも割りと顕著になっていて、日本テレビの広告枠の売り上げこのQ2は厳しいと言う報道にもあるとおり、見る人は確実に減っている...

シンプルさ

色々と思い悩んでしまう。元々考えやすいタイプで、「考えないでやってみたらいい」という言葉は物心ついてから、いろんな人に言われた言葉。その言葉を合えて否定するがごとくに生きてきた気もする。「考えてるんだよ、俺は!」という気分になったこともあるけれど、大半はただ同じことをダラダラと頭の中で繰り返しているに過ぎず、考えている、というより、「囚われている」と言った方があっている感じがする。ある状況に飲まれているという言葉もあっているかなぁ。そういう性格のなかで、「シンプルじゃない」という言い方をされるのが実はすごくつらい。でも、きっと複雑に、回りくどく、自分で考えてみたい、という欲求もあるのだろうな・・・と感じる。 シンプルさとはなんだろうか。単純化というプロセスは、いつでも必要なスキルだと思う。複雑なものを複雑なまま理解するというのは、抽象的に理解していたとしても、複雑なものの細部まで細かく理解できているわけではないことのほうが多い。要するに、分かったフリだ。だから、跡で「考えてしまう」のだろう。分からないものと分かるものを常に意識していることが考えすぎを回避するコツなのかなって気がしている。 しかし、いつでもどこでもシンプルであればいいわけじゃない。シンプルさは結果までのプロセスが短く、そのプロセスの回転数を上げられるうちは、経験も手伝ってよい結果を得られる。けれど、いつか限界がやってくるものだ。 そのときに必要なのは、もちろん物事を単純化するプロセスと、全体を抽象的に捉えるという2つのスキルなのかもしれない。結果を出す必要がある以上、シンプルさが必要不可欠だし、戦略を寝るための基礎体力という感じもする。