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学校という組織と人

営業先には、学校もある。学校は、よく「文教」というセグメントでくくられることが多い。大手ベンダーなどが、部門名に「文教」とついていることなどあって、学校は、小学校~大学などを含めて「文教」と呼ぶことが多い。 先日、ある地方の高校にお邪魔した。製品販売の一環で説明にいった。受付を済ませて応接室に。そのとき、「担当教諭が打ち合わせの時間を間違えており、本日は午後、お休みをいただいております。申し訳ないのですが、他のものが対応いたします。」と言われる。お客様の予定の突然の変更や、お客様の時間の勘違いはたまにあり、しょうがないなぁ、と思うくらいだった。 実際、応対に来ていただいた方は、部下に当たる方で話は通っていたこともあり、スムーズだった。その上、学校内の施設の見学までさせていただいて、なんとも言えず「親切」な対応をいただく。 世間ズレしている世界 1週間後、価格のご提案に、再度担当教諭を尋ねる。担当教諭も、業者なれしていることもあり、価格交渉は厳しくも慣れている感じで、良くある感じだった。 しかし、気になったのは、その担当教諭の対応でも、先日お会いした部下に当たる教諭の対応でもなく、他の先生の態度だった。 打ち合わせは、その担当教諭が取り仕切るIT関連の部屋で行われた。そこに机のある先生は、みんな校内のIT関連の仕事もしながら、個々に専門を持つ。担当の教諭、と呼んでいる方は国語の先生だし、部下にあたる・・・と呼んでいる方は英語。体育や数学、色々いる。その先生のところに、他の先生が突然入ってくる。「メールの送り方がわからない。」そんなのは、全然良い。打ち合わせをしているのは応接ではないので、しょうがない。急いでるのかもしれないし、そもそもが新参の業者にそこまで気を使うこともない、という心理もわからないではないし。 ただ、ある先生などは、大声で愚痴を言い出し、部下にあたる英語の先生にゴチャゴチャと何か言い出した。まったくこっちを無視している。また、紹介された数学の教師は、何となくこっちを生徒扱いしている。挨拶がおかしいのだ。 私が不安になったのは、私のような民間企業の営業にこういう態度を持つと言う先生のしたで育つ生徒たちのことだった。子供を持つと、社会に対する感度が強烈に増す。色々な事件や、社会問題が身近に感じる。そういう感性のなかで、親として「こんな人たちの下で育っている...

文字で伝えることとテレビ

人間の情報のほぼ8割~9割は目から入る映像情報で、文字や音声を圧倒的に上回っているということは、よく聞く話。目に見えるメディアが一番強い。そこから受ける影響も格段に違う。殺人事件の報道で、「殺害現場」をカメラで写しているのを見るのと、ラジオで状況を伝えているのを聞くのと、どっちが臨場感があるかといえば、映像つきなのだ。 藤沢さんのブログはチョコチョコみていて、こんなエントリーがあった。 金融日記:テレビを捨ててしまおう 文字と音声と画像と動画では、文字→音声→画像→動画と右に行くほど、電子工学的には情報量が爆発的に増えていきます。 ところが人が実際に受け取れる情報量というのは不思議なもので左に行くほど増えていくのです。 本のような文字情報はラジオの音声情報やテレビの動画よりも多くのことを伝えますし、一枚の絵画は時に何時間ものVCRよりも多くを伝えるのです。 人間がもっとも情報を伝えられるのは、実は文字なのです。 最後に、人間が最も情報を伝えられるのは実は文字である、とある。これは、伝えられるものは圧倒的に映像だと思うけど、おっしゃりたいことは分かる気がする。要するに、受け取り側の処理の問題なのではないか。文字のほうが、想像力や意味づけがしやすいというのがある。映像の情報量は圧倒的だけれど、それらを覚えていても実は後でそれほど役に立たない。問題は、文字などの、ある意味「不完全」で 「抽象的」な情報収集が、判断の材料にしたり、さらに人に伝えるときに付加価値をつけやすい、そういう意味で、文字のほうが雄弁であるというのは、うなづける。 テレビ テレビについては、ほぼ見ていない。引っ越してからケーブルテレビを引いたのだけど、結局見てるのは、NHKのニュースとケーブルでやってる、Discovery Channel、あとはたまに映画チャンネル。これで十分日常のテレビの役割は果たせてくれている。こういう生活になって、テレビを見る時間は減ったし、久しぶりにお笑い番組とか見ると、学芸会のように見えて、こちらが恥ずかしくなることもある。 これは価値観や、「なにを面白いと思うか」「時間を何に使うか」という個人の判断だから、何を言うわけではないけど、テレビ離れは若い人の間でも割りと顕著になっていて、日本テレビの広告枠の売り上げこのQ2は厳しいと言う報道にもあるとおり、見る人は確実に減っている...

シンプルさ

色々と思い悩んでしまう。元々考えやすいタイプで、「考えないでやってみたらいい」という言葉は物心ついてから、いろんな人に言われた言葉。その言葉を合えて否定するがごとくに生きてきた気もする。「考えてるんだよ、俺は!」という気分になったこともあるけれど、大半はただ同じことをダラダラと頭の中で繰り返しているに過ぎず、考えている、というより、「囚われている」と言った方があっている感じがする。ある状況に飲まれているという言葉もあっているかなぁ。そういう性格のなかで、「シンプルじゃない」という言い方をされるのが実はすごくつらい。でも、きっと複雑に、回りくどく、自分で考えてみたい、という欲求もあるのだろうな・・・と感じる。 シンプルさとはなんだろうか。単純化というプロセスは、いつでも必要なスキルだと思う。複雑なものを複雑なまま理解するというのは、抽象的に理解していたとしても、複雑なものの細部まで細かく理解できているわけではないことのほうが多い。要するに、分かったフリだ。だから、跡で「考えてしまう」のだろう。分からないものと分かるものを常に意識していることが考えすぎを回避するコツなのかなって気がしている。 しかし、いつでもどこでもシンプルであればいいわけじゃない。シンプルさは結果までのプロセスが短く、そのプロセスの回転数を上げられるうちは、経験も手伝ってよい結果を得られる。けれど、いつか限界がやってくるものだ。 そのときに必要なのは、もちろん物事を単純化するプロセスと、全体を抽象的に捉えるという2つのスキルなのかもしれない。結果を出す必要がある以上、シンプルさが必要不可欠だし、戦略を寝るための基礎体力という感じもする。

迷信と行動

例え話 ある時聞いた話。 「私の聞いた話なんだけど、よく遊び人っているじゃない?そういう人と結婚した女性がいたのね。で、その人、結婚してからも女遊びがひどかったんだって。奥さんにバレても止める様子がなかったんだってさ。でもね、奥さんは分かれませんでした。なぜかというと、その人の子供がおなかにいたの。」 「そーなんだ。それはそれは・・・・。」 「うん。その子にお父さんがいないのは、寂しいだろう・・・とおもって、我慢してたんだって。出産するときになると、だんなさんも駆けつけたんだけど、生まれた子供を見てびっくり・・・。」 「どうしたの?」 「その子供の、指が全部なかったんだって・・・・。それから、その男の人は、女遊びを止めたんだってさ・・・」 こういう、理屈の通らない話は世の中にゴマンとあって、雰囲気的には、都市伝説・迷信の類である。実際、この話が事実かどうかというのは、ほぼどうでも良い話であって、結果的に「女遊びをすると、えらい目にあう」という教訓が伝わればいいという話。 こうした、いわゆる、「迷信」というのは、たくさんある。都市伝説と呼ばれる形になっているものもたくさんあるし、結果的に話し手は「何かを伝えるときにストーリー立てて、身近な話題とすり合わせて、例え話にして伝える」ということをする。物事を率直に伝えても、相手の心に届かないことのほうが多く、逆に、少し現実を端折った例え話で身近な事例として感じさせ、話しをしたほうが、聞き手には響く場合が多い。 臨場感 ほとんどの場合、昔話は、迷信が持つコミュニケーション・プロセスを用いて、「何か普遍性のある理屈をつたえ、あるべき姿、を伝えるために作られた事実をベースにしたフィクション」を伝える手段とでもいえるのではないか。一定の効果があり、時代をわたって行き続けてきた話なので、今でもその効力は衰えない貫禄がある。 ここで問題にしたいのは、こうした話の内容一つ一つの科学的な妥当性や、理論的な裏づけではない。そんなものは手繰っても大して意味はないわけで、問題にしたいのは、「なぜ、われわれは事実を確認しないまま、こうした話の持つ臨場感に左右されてしまうのか」ということだ。こうした話には、理性で疑っても、疑いきれない、否定しきれない、感覚的・感情的な「臨場感」がある。この臨場感が「迷信」が人の行動をコントロールすることができる大きな...

会社

誰が何の理由で集まったのか? ブログを読み返した。 2007年4月30日の自分のブログ に書いてあったことを、2度読み返してみた。今見ても、なんとなく納得する。1社目、2社目、そして現在3社目。この3社と、会社の継続性について、割と単純に、自分が知っている会社の流れを書いた。 文章の最後に、雇用者と被雇用者のことが書いてあった。今読んでみると、その言葉は予言めいて見えるほどだった。そのとおりになった。 以下、引用部分。 雇われる側と雇う側の 論理 には、 会社 が後ろ向きになったときに決定的な差が見えます。前向きなときは、お互いが歩み寄っているようにみえますが、後ろ向きなときにはお互いが別の立場だと思い知らされる。 会社 とは、 経営 側が継続性を保つために絶えず リソース の配分に気を配り、 リソース はその配分において答えを出して継続性に寄与するってのが 会社 なんじゃないかなって。 会社というのは、「共同体」という人もいた。ある人は、ピーター・ドラッカーの話を引用していて、そこには会社が誰のものかと言う観点で語ることすら 戒め、「社会へ貢献する集団であるという理解をなぜもてないのか」という言葉を引き合いに出していた。会社はただの仲良しクラブだったり、本当に個人の自 己実現のためであったり。( 渡邊さんのブログ ) 会社は誰のものか、という議論はあまりに稚拙だ。言うならば、『会社は社会のもの』という事を理解する必要があ る。 会社には、それぞれの形があり、それぞれ貢献している場所や箇所が違う。本質的に何か、という問いに答えることはできないが、今までの経験の中で一つ言え るのは、「会社とは何か」ということよりも、「誰がそこに集まっているか」ということが重要で、「会社とは何か」という問いに対しての答えに近いのではな いか。会社という器に誰が集まるかという考え方よりも、誰が集まって会社という器を形成したか、ということのほうに目をやるべきだ。何かの目的の下、もし くは何も目的がないが、集まること自体が目的で集まった、その「誰彼」は、要するに経営側・雇用側と同じと理解するのが早いと思う。 集団をつくった「誰彼」の意思は、少なからず経営側に引き継がれることが多い。 誰が何のために作った組織か、ということを理解することで、組織の行く末が見える。...

面接

昨日、27日は有給休暇をとって面接と、転職エージェントに会ってきた。午前中、9時半から神谷町にある某外資系インターネット広告 専業の会社の面接。面接は2回に分かれており、1回につき、約1時間の予定。この会社を受験するきっかけとなったのは外資系の転職エージェントからの紹介 だった。「セールス」という職種だけでIT系の企業を何社か挙げてもらって、かまわず書類を送ったという次第。そのうち、何社かは書類が通ったので、面接 に行くことになった。興味がある会社もあれば、大して興味がない会社もあったけれど、「まずはどんな会社かみて見よう・・・」という軽い気持ちと、内定を たくさん取りたいという、よく考えてみれば理にかなわない希望から、とりあえず面接をうけることになった。 場所は神谷町の駅から少し歩いた、大き なビル。有名なビルだから言えばビルの名前も会社の名前もわかると思う。ビルは大きくて、エレベータに乗るには守衛が立っている自動ドアをくぐる必要がある。IDが必要で、IDが無い人物は個人を証明できる免許書などの提示が必要。そこにいるのは、可処分所得の多そうな人たち。着ている物も身に着けているものも、安っぽくは無く、かっこつけている。男性のバックは「TUMI」を持っている人が多いような、そんな感じだった。なんとなく「この会社で働くことになったら、こういう 人たちと一緒に働くのかな・・・」と思ったりした。私は今まで大きなビルの中で働いた経験があまりないので、こういう雰囲気に少し憧れがある。なんとなく、勝ち組サラリーマンのようなイメージ。ロビーに有名なコーヒーショップが入っていたり すると、なんとなく、「あぁ、ここのコーヒーを飲みながら、仕事すんのかな・・・」とか、勝手に考えたりしていた。その妄想は、それはそれで気持ちのいいものである。しかし、なぜかその環境をどこかで毛嫌いしている自分がいるのも確かだ。そんなことを考えながら、受付に向かった。 受付を済ませると、1回目の面接が始まる。技術者っぽい面接官が一人入ってきた。表情は硬く、こちらの目をじっと見ている。こちらの自己PRなどを話してみるが、なかなか打ち解けない様子。話を20分位した後だったろうか、「営業はどこでも同じだと思いますよ」という話になったあたりから、私の持論に少し合点がいった様子で目つきを和らげ、話も滑らかになっていった。...

裏切り続ける心理

人を裏切るという心理。人間は、自分の思いを人に伝えて、その伝えた思いを汲んでもらうことを望む。信頼関係というのは、その思いを汲む人達の間で培われる関係だ。裏切るというのは、その信頼関係を逆のことであり、思いを受け止めておきながら、その意を汲まず、まるで反対の行動をする。思いを伝えた人は、思いを受け止めてくれたと思っていたのに、行動がそれに伴わない・・・。それが「裏切り」のひとつの解釈ではないだろうか。 裏切りとは、そういう意味では「うそ」ともつながる。思いを汲んで、信頼関係があると「見せ掛け」て、相手の思いだけを受け取り続ける。要するに、思いと行動の貸し借りが信頼関係ならば、「借りっぱなし」ということになる。借金のようなものだ。そういう人生を歩み続けると、一体どんな終末が待っているのだろうか。裏切りを続ける人というのは、なぜ裏切り続けるのだろうか。人に恩を仇で返してしまうということを、病的なまでに繰り返してしまう人がいる。 そういう人は、人の思いが肯定的であればあるほど、また善性であればあるほどに仇にしてしまうように感じる。正義、誠実、善、肯定・・・こうした「まっすぐな期待」を感じたとたんに、その「まっすぐさ」を否定するがごとくに、裏切る。仇で返してしまうのだ。 人の思いを受け止め、人の思いを汲み、行動に反映するという信頼関係とは、お互いの思いや時間を共有するということにも通じる。そういう点でいえば、共有すらも拒否しているとうことになる。思いを共有することを拒否しているのだから、孤独なのだ。そして、好んで孤独になっているということもある。裏切りとは、もしかすると、孤独な人間の自己防衛の結果なのかもしれない。そして、「思いを共有すること」を拒否し、「孤独でいつづける」ということは何を意味するか・・・というと、自分の世界観の欠如、もしくは世界観の認識不足に他ならないのかもしれない。 自分の世界を共有したくないというのは、どういうことか。それは、成長を拒絶しているという側面もある。今ある状態を保つことを最優先とし、それをシェルターとする。このシェルターは、ヘッセ著「シッダールタ」でシッダールタと遊女の会話で出てくる逃げ場のことを言ってるのかもしれない。この二人は、最後まで二人の世界観を共有することはなかった。「シッダールタ」は成長したのではなく、捜し求めた。そういう人生だ...