2008年3月30日

迷信と行動

例え話

ある時聞いた話。

「私の聞いた話なんだけど、よく遊び人っているじゃない?そういう人と結婚した女性がいたのね。で、その人、結婚してからも女遊びがひどかったんだって。奥さんにバレても止める様子がなかったんだってさ。でもね、奥さんは分かれませんでした。なぜかというと、その人の子供がおなかにいたの。」
「そーなんだ。それはそれは・・・・。」
「うん。その子にお父さんがいないのは、寂しいだろう・・・とおもって、我慢してたんだって。出産するときになると、だんなさんも駆けつけたんだけど、生まれた子供を見てびっくり・・・。」
「どうしたの?」
「その子供の、指が全部なかったんだって・・・・。それから、その男の人は、女遊びを止めたんだってさ・・・」

こういう、理屈の通らない話は世の中にゴマンとあって、雰囲気的には、都市伝説・迷信の類である。実際、この話が事実かどうかというのは、ほぼどうでも良い話であって、結果的に「女遊びをすると、えらい目にあう」という教訓が伝わればいいという話。
こうした、いわゆる、「迷信」というのは、たくさんある。都市伝説と呼ばれる形になっているものもたくさんあるし、結果的に話し手は「何かを伝えるときにストーリー立てて、身近な話題とすり合わせて、例え話にして伝える」ということをする。物事を率直に伝えても、相手の心に届かないことのほうが多く、逆に、少し現実を端折った例え話で身近な事例として感じさせ、話しをしたほうが、聞き手には響く場合が多い。

臨場感

ほとんどの場合、昔話は、迷信が持つコミュニケーション・プロセスを用いて、「何か普遍性のある理屈をつたえ、あるべき姿、を伝えるために作られた事実をベースにしたフィクション」を伝える手段とでもいえるのではないか。一定の効果があり、時代をわたって行き続けてきた話なので、今でもその効力は衰えない貫禄がある。

ここで問題にしたいのは、こうした話の内容一つ一つの科学的な妥当性や、理論的な裏づけではない。そんなものは手繰っても大して意味はないわけで、問題にしたいのは、「なぜ、われわれは事実を確認しないまま、こうした話の持つ臨場感に左右されてしまうのか」ということだ。こうした話には、理性で疑っても、疑いきれない、否定しきれない、感覚的・感情的な「臨場感」がある。この臨場感が「迷信」が人の行動をコントロールすることができる大きな要素なのではないか。

なぜ従うのか

なぜ、夜、口笛を吹くと蛇がでるのか、なぜ、夜、爪を切ると親の死に目にあえないのか・・・。こうした話、ここで言うところの「迷信」の不思議なところは、なぜか心理的に臨場感があるところだ。蛇に対しての臨場感ではなく、「何かをしてほしくない」という話し手の意志を感じる。
そして、口笛を吹く、爪を切るという行為自体を、止めたところでそれほど不都合ではないという点に注意したい。それほど不都合ではないから、その意志を受け入れ従ってしまう。しかし、小さなことでもしたがってしまうと、前例ができる。人間の脳みそは、前例に敏感だ。未来の出来事を必ず過去の出来事と照らし合わせて判断を行う。
つまり、つまらないことでも従ってしまうと、臨場感に反応し、「迷信」に従うようになるのかもしれない。 考えてみれば、「迷信」という文字が、すでに迷いをあらわしている。そのような、迷いを前提にした話をなぜ人間は信じるのだろうか。