2007年12月1日

会社

誰が何の理由で集まったのか?

ブログを読み返した。2007年4月30日の自分のブログに書いてあったことを、2度読み返してみた。今見ても、なんとなく納得する。1社目、2社目、そして現在3社目。この3社と、会社の継続性について、割と単純に、自分が知っている会社の流れを書いた。
文章の最後に、雇用者と被雇用者のことが書いてあった。今読んでみると、その言葉は予言めいて見えるほどだった。そのとおりになった。
以下、引用部分。
  • 雇われる側と雇う側の論理には、会社が後ろ向きになったときに決定的な差が見えます。前向きなときは、お互いが歩み寄っているようにみえますが、後ろ向きなときにはお互いが別の立場だと思い知らされる。会社とは、経営側が継続性を保つために絶えずリソースの配分に気を配り、リソースはその配分において答えを出して継続性に寄与するってのが会社なんじゃないかなって。

会社というのは、「共同体」という人もいた。ある人は、ピーター・ドラッカーの話を引用していて、そこには会社が誰のものかと言う観点で語ることすら 戒め、「社会へ貢献する集団であるという理解をなぜもてないのか」という言葉を引き合いに出していた。会社はただの仲良しクラブだったり、本当に個人の自 己実現のためであったり。(渡邊さんのブログ

  • 会社は誰のものか、という議論はあまりに稚拙だ。言うならば、『会社は社会のもの』という事を理解する必要がある。

会社には、それぞれの形があり、それぞれ貢献している場所や箇所が違う。本質的に何か、という問いに答えることはできないが、今までの経験の中で一つ言え るのは、「会社とは何か」ということよりも、「誰がそこに集まっているか」ということが重要で、「会社とは何か」という問いに対しての答えに近いのではな いか。会社という器に誰が集まるかという考え方よりも、誰が集まって会社という器を形成したか、ということのほうに目をやるべきだ。何かの目的の下、もし くは何も目的がないが、集まること自体が目的で集まった、その「誰彼」は、要するに経営側・雇用側と同じと理解するのが早いと思う。
集団をつくった「誰彼」の意思は、少なからず経営側に引き継がれることが多い。

誰が何のために作った組織か、ということを理解することで、組織の行く末が見える。集まった「誰彼」は理由はどうあれ、組織を作った。組織の初期は、彼ら が意図しようがしまいが、彼らの状況を織り込んでいるものだ。組織した理由には、多かれ少なかれ、彼らの状況が盛り込まれている。
そして、会社という組織は、意外なほど変わらない。変化することが困難であるという印象がある。だからこそ、「変わらない価値のための変化」ができることがすばらしいのかもしれない、とも思う。
誰が集まり何をしているか。そして、その会社が一番貢献しているのは、何に対してか。

会社、というのは実は、財務報告のように、集団のある一時期を切り出しているだけ、いわば「一時期の状態」を言うだけかもしれない。たまたま、そこにいる 集団を法的に定義し、利益を報告させ、税金を徴収し、雇用を確保させ、社会に貢献させるための「法人」という状態を言うだけなのかもしれない。
投資判断にも使えるかもしれない。その会社は何に対して貢献しているのか。会社の成り立ち、会社の沿革、そこに集まる人たちがなぜそこに集まったのか。そして、今何を考えているか。
そもそも、会社という組織に何を求めているのか。何がしたくて、そこにいるのか。こう思うと、不思議と孤独感を感じる。会社に対して、何を求めていた のか。今は、表面上は会社に安定を求めている。しかし、安定とはなんだろうか。給料が安定し、仕事が安定し・・・。例えば、その会社に勤め続け、同じ事を 続けることを受け入れるということになる。
本当に、それを会社に求めているのか。「今は安定を求めている」というが、その感覚は本当なのだろうか。純粋に、自分の将来をその組織の中で描くことができない。

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